小倉智昭さんとえば、「とくダネ」のキャスターを22年間務めた事で知られていますね!
小倉智昭さんが超有名キャスターになるまでにどのような経歴を歩んできたのでしょうか。
このブログでは小倉智昭さんの若い頃についてまとめます。
【小倉智昭と妻小百合の馴れ初め】についてはこちらからご覧ください。
小倉智昭のアナウンサー駆け出し時代
獨協大学外国語学部フランス語学科を卒業後、1970年に時事通信社へ入社。
社会部記者としてアナウンサーとしてのキャリアをスタートさせました。
その後、1973年に東京12チャンネル(現・テレビ東京)にアナウンサーとして入社。
小倉智昭さんは当時から競馬をやっており、詳しかったことから『競馬中継』実況アナウンサーとして活躍しました。
また毎週土曜日午後のワイド番組『ザ・ロンゲストショー』の中で競馬中継を担当し、注目を集めました。
小倉智昭の極貧時代
小倉智昭さんは、29歳の時、フリーアナウンサーに転身、大橋巨泉の事務所に所属しました。
この頃、前妻の奥様と離婚されています。
フリーランス転身後は、仕事が入らず経済的に厳しい状況が続いたそうです。
でも、フリーになって9年間は、本当に食えませんでした。巨泉さんも、引き抜いたからといって仕事を紹介してくれるわけではない。実力がないと使わない、という人ですからね。
/講演依頼.com新聞
小倉智昭さんは、この頃について、雑誌のインタビューで苦労話をしています。
「税金なんか当たり前、養育費も公共料金の支払いも滞納が続いた」
「質屋と古本屋には本当にお世話になった」
/引用元:Wikipedia
今の小倉智昭さんから想像できませんが、電気・ガス・水道は止められ、電車賃が払えずアパートまで歩いて帰宅する日々が続いたそうです。
同僚からお金を借りたり、ご両親から食べ物を差し入れてもらって生活を凌いでいたようです。
また、小倉智昭さんは、給料の前借りが日常的であったことから「バンスの小倉」とあだ名を付けられていたそうです。
前借りが日常化してしまって、「バンスの小倉」とあだ名もつけられて(笑)。タレントなのに、事務所に机があって、巨泉さんの競馬の資料作りのアルバイトをしたり(笑)
/講演依頼.com新聞
フリーアナウンサーとしての小倉智昭
極貧時代を乗り越え、転機となった番組は、「世界まるごとHOWマッチ」のナレーターでした。
小倉智昭さんは、「七色の声を持つナレーター」として知られるようになりました。
ギャラも上がったそうです。
ギャラは結局、当初からの10倍になりましたね。
/講演依頼.com新聞
またジオパーソナリティとしても頭角を現し、生ワイド番組のパーソナリティを長期に渡って務めました。
そして小倉智昭さんの冠番組「とくダネ!」のキャスターとなります。
小倉智昭さんは、フジテレビで朝番組のキャスターをすることが1つの夢だったそうです。
フジテレビのアナウンサー試験を受けたとき、将来やりたいと言っていたのが、朝のワイドショーだったんです。小川宏さんみたいに、8時からの枠でやりたい、と。それが、28年ぶりに叶ったわけです。
/講演依頼.com新聞
とくダネでは2021年3月まで22年間メインキャスターを務め、その間に4452回の放送回数を達成。
同一司会者による全国ネット情報番組としての最多記録を樹立しました。
とくダネは、朝の情報番組で視聴率が1位になり、それから14年間、牙城は崩れませんでした。
まとめ
いかがでしたか。
今回は小倉智昭さんの若い頃についてまとめました。
【小倉智昭と妻小百合の馴れ初め】についてはこちらからご覧ください。
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